ながさきのへそ (長崎見聞録)
★生まれ育った長崎を再発見しようと、いろんな角度から切りこんでみました。あんまり人にゃ見せんばってん、大事か「へそ」。長崎のへそば、ちょっこっとばっか、お見せしましょか^^ ≪長崎おもしろトピックス≫
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長崎港を開港した殿様の悲運。

『栄光と悲劇を経験した殿様』。

長崎甚左衛門純景」は、長崎最後の殿様だった。
またの名を「ベルナルド」。キリシタンの洗礼を受けている。
義理の父親である大村の切支丹大名「大村純忠(洗礼名ドン・ベルトラメウ)」とともに、南蛮貿易の拠点と切支丹の安住の地とすべく、イエスズ会の宣教師や神父とともに長崎港を開いた。
1571年の事だ。

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平戸やその他の地の「ヨーロッパと貿易はしたいが、キリスト教は嫌」とする各大名と違って、積極的にキリスト教を受け入れ、長崎の各地をイエスズ会に寄進し優遇する事で、貿易港として確立させていった。
そこには、しっかりと先を見据えたビジョンがあったと思われる。

世界中の船を呼ぶには教会や宗教の力が必要だということ。
それを妬んだ周辺の豪族らの侵攻にキリシタンらとともに幾度も防衛し、長崎を守ったのも彼らだ。

しかし、神は彼らに試練を与えた。

1587年の豊臣秀吉の宣教師追放令にともなって、翌年長崎は天領として取り上げられ、1605年に自らの領地も大村領に換地され、14代目の長崎の最後の殿様は、開港に賑う長崎を去る。
大村で百石扶持で隠居生活をしていたが、晩年長崎市の燐町「時津町」 に移り余生を送った。

鎖国時代の唯一の港として栄えた長崎を、彼はどんな気持ちで見守っていたのであろうか。
この彼の像は、諏訪公園にあり、彼の墓は時津にある。
長崎開港の立役者は、その地に戻る事を許されなかったようだ。

【秀吉の言い訳】
突然、宣教師追放令を下した秀吉は、その直前に宣教師側に詰問状を出している。

1.パードレ達は、なぜ、日本人を無理にキリシタンにするのか?
2.なぜ、信者を扇動して神社・仏閣を破壊し僧侶を迫害するのか?
3.なぜ、耕作に必要な牛を食うのか?
4.イエスズ会は、なぜ、ポルトガル人が多数の日本人を奴隷としてインドに輸出するのを許すのか?

長崎においては、確かに多くのキリスト教徒が神社・仏閣を焼き討ちし、破壊し教会を建てて行った。
そして僧侶たちが多くのキリスト教徒から迫害されていたのも事実だ。
あまたの女性がポルトガル人によって、さらわれ、南方に奴隷として売られていた事も、これまた事実である。
その後、目にあまる宣教師達の強引な伝道に、1612年、秀吉は、貿易は許すが、キリスト教は許さないという

「キリシタン禁教令」 出す。

さて、この秀吉の決断がその後の歴史にどう影響したかは、まだ結論が出ていない。

≪開港前の長崎の図≫
開港当時の長崎
●『元亀開港以前の長崎』丹羽漢吉氏作画(嘉村国男編「長崎の招待」文献社より)

長崎甚左衛門と宣教師たちが発見した当時の『長崎』。
絵の中央の細長い岬。その“ながいみさき”だから長崎 といわれていた。
現在の市役所から県庁にのびる細長い岬だ。
先端の岬に現在の県庁がある。その周りは、まだまだ小さな漁村だったようだ。
今の地名に浜とか浦とか付いてるのは、その頃の名残りだろう(浜口、浜の町、浦上・・)。
奥は浦上川の奥まで入り江が入りこみ、手前は、蛍茶屋付近まで入り江があった。
当時の『長崎村』は、桜馬場郷(桜馬場)、中川郷(中川)、片淵郷(片淵)で、長崎甚左衛門はそこに居を構え、他の豪族達の攻撃に応じていた。

*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル。
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