ながさきのへそ (長崎見聞録)
★生まれ育った長崎を再発見しようと、いろんな角度から切りこんでみました。あんまり人にゃ見せんばってん、大事か「へそ」。長崎のへそば、ちょっこっとばっか、お見せしましょか^^ ≪長崎おもしろトピックス≫
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ねずみ島にタイムスリップ。
今では陸続きになって、工業用地として無残な姿になっているが、昔は島まるごとが海水浴場として営業していた島が長崎港の入り口にあった。
その名もねずみ島

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周囲が600mのその島を知ってる世代と知らない世代は、はっきりと分れる。
環境問題で閉鎖されたのが1972年の事だから、その頃に小学生だった世代で、その存在を知らない世代が増えていく。45歳ぐらいがその境目だろうか。

なぜ、小学生?というと、その島で水泳教室が行われていたのだ。
そこは、子供達の夏のパラダイスだった。いや、違う。ある意味では地獄の教練所。楽しくもあり、厳しくもあり、怖面白い水泳道場。(写真の女神大橋の左の小さな島のような部分)。

しかも、市内の小学校で会員を募集していた。

入会すると首からかける木札をもらう。それが会員証だ。その木札の紐に、お小遣いの5円玉を何枚か通し、それで買うのがはじき豆。それを木綿の袋に入れて泳いでいると、ふやけて塩味が程良いオヤツになる。

大勢の子供たちが船に乗り込む。

島に渡るのは、大波止から団平船に乗り込む。すぐに島に着くのだが、それもまた楽しい。島は周囲が600mと小さい島。そこに一般海水浴場の浜と子供達の水泳会員の浜とあわせて4つの浜があったようだ(かなり記憶が定かではない)。会員は一般海水浴場では泳いではいけなかったのだが、小さな島だったので、アチコチ探索してたっけ。物凄い人数の子供たちが島での夏の海を満喫していた。学校も学年も何も無い子供達の解放区だ。

帽子でランク付け。

水泳会員は、甲・乙・丙・丁という段位に別けられ、それぞれまた順位の小グループに分れて帽子の色や線で区別できるようになっていた。はやく違う色の帽子を被りたくて、頑張って昇段試験を受けていたもんだ。実力以上の段を受けて、試験中に溺れそうになったのも今では懐かしい。

かの柔道家の姿三四郎がつくった。

姿三四郎のモデルになった柔道家の西郷四郎が講道館を去り、長崎で勤めていた新聞社の記念事業として始めた「水泳教室」。その後、小堀流の古式泳法「長崎水泳教会」として引き継がれ、長年、子供達に泳ぎを教え続けていた。1972年に長崎外港埋め立て計画により閉鎖した後は、「水泳教会」の場を市民プールへと移して現在も続いている。

ねずみ島の今。

ねずみ島が閉鎖されて、もう35年も経つんだなぁ。
という事で久しぶりに(45年ぶり)行ってきた。
島への入り口はすぐわかった。

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陸続きになってるとは聞いていたのだが、島は工業用地として埋め立てられ「皇后地区公共埠頭」として存在していた。正式名称は「皇后島」というらしい。

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唯一残っていた桟橋から先の子供達の教練の浜は埋め立てられて当時の思い出はまるで無い。かろうじてひとつの浜(一般海水浴場?)だけ当時の雰囲気を残していた。

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当時の想い出の欠片を探したが、さすがにもう何一つ残ってない。
ねずみ島の父と言われる田中直治師(第六代主任師範)の銅像だけが、浜辺に残され、かろうじてここが「ねずみ島」と判る。

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これだけの狭い場所を工業用地とする必要があるのか?
あの素晴らしい構想で長年続いた「ねずみ島」を、想い出の地として残せなかったのかな?と思う。

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今からでも遅くないので、「記念公園」として後世に残して欲しいもんだ。
あの子供たちの夏の解放区。

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