ながさきのへそ (長崎見聞録)
★生まれ育った長崎を再発見しようと、いろんな角度から切りこんでみました。あんまり人にゃ見せんばってん、大事か「へそ」。長崎のへそば、ちょっこっとばっか、お見せしましょか^^ ≪長崎おもしろトピックス≫
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長崎版忠臣蔵の深堀騒動。
時は元禄13年(1700年)、暮れも押し迫った12月。
権勢と威光をかさに着て威張りに威張っていた悪名高き「町年寄」の高木家に、深堀家の武士21人が討ち入り。市民から大喝采を浴びた。

『深堀蕃士の討ち入り』。

大音寺坂
●発端となった事件があった大音寺坂。現在の法務局の横の坂。

のちの赤穂浪士の討ち入りに、攻撃方法が参考にされたとかいう話もある。
しかし、事の発端はちょいと情けなく、深堀家の家臣の老武士二人が高木家の下っ端に、町ですれ違った際に喧嘩になり、いったんおさまったが、その夜に高木家10数名の殴り込みに合い、馬鹿にされたあげく武士の魂である刀を取り上げられた。
それでも、次の日の早朝、さすがは「葉隠れ武士」の佐賀藩士(深堀家は佐賀藩だった)。
*当時、長崎は天領として幕府管轄。周辺警備に佐賀藩がまかせられていた。

「武士道とは

死ぬ事とみつけたり」 。

と、死に装束をまとった総勢21人の深堀蕃士の討ち入りに、町の人々は驚いたに違いない。
結果、討ち入りは成功したが。参加した武士の12人が切腹、あとの9人は五島に流罪となった(合掌)。
長崎半島のねっこにある深堀には、武家屋敷跡とともに切腹討ち死にした侍達の墓がある・・・。 

刀を奪われたのは「深堀三右衛門」と「志波原武右衛門」。三右衛門は高齢のために杖をついていたのだとか。討ち入りを果たした三右衛門は、その場で切腹。武右衛門は、引き上げの際に中央橋(くろがね橋)で切腹。大勢の民の前で、騒動の責任をとったのだろう。この2人とともに最初に高木邸に突入した9人は切腹死罪。
応援にかけつけた9人の武士達は、五島へ流島。
最初に、五島町の深堀屋敷におしかけ、乱暴狼藉を働いた高木家の使用人達で生き残った8人も死罪斬首となっている。


*1999年2月の日記をブログ用にリニューアル♪
この記事に対するコメント

「忠臣蔵」の赤穂浪士による討ち入りに、この深堀騒動の討ち入りが参考にされたという事を関連付ける伝説が、流島地の五島列島・久賀島に残っている。
「忠臣蔵」自体が、元禄赤穂事件を題材にした物語なのだが、その実際の事件で、赤穂47士の最後の1人(寺坂吉衛門)だけが切腹を免れている。
裏切りによる逃走なのか?大石内蔵助の密命の為に離脱したのか?は、未だに論争には決着がついてない。
この寺坂吉衛門の余生や墓についても、全国各地に伝説として残っているのだが・・・。
この久賀島にも、その弟(寺坂随天)がお寺(恵剣寺)を創建(元禄の初め)している所から縁があるとされている。寺坂随天は江戸・泉岳寺(赤穂浪士の主君である浅野家の菩提寺で、46士の墓がある)の僧であったのだが、この地にて寺を建て暮らしていた。
その伝説によると、寺坂吉衛門が流島されていた深堀の武士へお礼と報告に来たのだと記されている。しかし、その時点ではすでに深堀武士たちは、流島の罰も解け、戻ってしまっていた。その後、寺坂吉衛門は、その久賀島に残り46士の霊を弔いながら余生を暮らしたのだとか(寺坂吉衛門を入れて47士)。
【2008/04/30 00:22】 URL | ねじ #NkOZRVVI [ 編集]


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