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2008.4.14〜 |
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| とっぽ水の由来 |
ここは、「坂の力持ち」の写真の馬が登ってる階段の右下。上には「長崎四国八十八箇所霊場」のお堂が建てられている。「四国八十八箇所霊場巡り」と同じご利益を長崎で体験出来るようにと1953年(昭和28年)に長崎市内に八十八箇所のお堂が開かれたひとつで、本場四国同様に弘法大師を祭ってある。
その下にあるのが 「とっぽ水」。 こちらの歴史は古い。

『弘法大師が沸かせた泉』 なのだ。
弘法大師といえば、遣唐使船に乗り長崎県の松浦郡から長安を目指した四国生まれの僧「空海」(774-835)。中国から真言密教をもたらし、全国各地に伝説を残している。そのほとんどは水にまつわる話が多く、この「とっぽ水」も、弘法大師が持つ獨鈷(トッコ)から来ていると言われる。 獨鈷とは金剛杵(ヴァジュラ)という手にもって加持をする密教法具で、実はお馴染みの歌にも出てくる。 「いっぽんどっこの唄」水前寺清子の『どっこ』はコレ。1本独鈷模様の博多織の帯地文様で、男意気を唄ったもの。「ぼろは着てても〜、こころの錦ぃ〜♪」のあの唄だ。ちょっと話がそれたけど、その「獨鈷水」が「とっぽ水」となったようだ。弘法大師は、全国各地で、この獨鈷を使って温泉や湧き水を言いあて、様々な伝説を残している。

この懇々と湧き出る泉は、江戸時代に長崎に来航する船乗り達の飲料水として大活躍した。つい近年まで生活用水として使用され、霊水としてもご利益があると言われていたのだが、ある日、とんでも無い事件が起こる。
『とっぽ水による赤痢事件』。
1986年8月、長崎市夫婦川町周辺で真性赤痢患者発生し、感染経路がこの湧き水(通称とっぽ水)である事が判明。赤痢菌検出のため使用禁止になる。その後赤痢患者は、更に増えて43人にもなった。生活汚水が混入してしまったのだろう。その後は、飲用水としての使用は禁止される事となる。
『夫婦川町の由来』 。
『夫婦川町』という珍しい町名も、実はこのとっぽ水が関係している。夫婦の女性の方の雌川がこのとっぽ水で、男の雄川は、春徳寺下の「斎道寺泉」で、二つの泉がある事から『夫婦川町』となったそうだ。
『1円まつり』。
とっぽ水の上に建つお堂「長崎四国八十八箇所霊場」で年に1回弘法大師まつりが開かれる。 お世話をする近所のご老人達がお菓子を沢山用意して、子供たちを待っている。子供たちが一円をお賽銭にあげてお参りをすると沢山のお菓子をもらえるのだ。その日は学校から帰ると、ビニール袋と一円を沢山握りしめて、近所の「長崎四国八十八箇所霊場」巡りをするのが楽しみだった。4月頃だと思うけど、今でもその風習は行われているようだ。
『長崎四国八十八箇所霊場巡
り』。
上記のように、四国巡礼を出来ないような人に、長崎市内でもそのご利益があるという事で、毎年4日間をかけて巡礼する催しが行われている。白装束に身を包み、太鼓を叩きながら巡っていくのだ。今年はスタート地点となる長崎市寺町の延命寺(第22世住職:堤祐演が八十八箇所霊場を開いた)に、130人あまりが集まったそうだ。 ウチの家もその経路となっているので、家の前をその集団が通り過ぎる。とっぽ水まで歩いて5分ぐらいだろうか。 この辺りの方だと『とっぽ水』は、超メジャーなのだけど、果たしてどれぐらいの人がご存知なのかが興味あるところ。近年の『さるく』でちょっとは有名になったかな。
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| 300年前の職人の様子を描いた「職人尽くし」。 |
県指定有形文化財の彫刻 『職人尽くし』。
この「職人尽くし」がある「松の森神社」は、菅原道真公を祭る長崎の代表的な天満宮だ。もともとは諏訪神社があったこの場所に1656年に今博多町から移転してきた。1713年の大改修の祭に奉納されたのが、この30枚の彫り物。彫り師は、御用指物師「喜兵衛」と「藤右衛門」。絵師は長崎奉行所絵師小原慶山とされている。もともとの下絵は平安時代末頃からはじまった「職人歌合」の系統である「職人尽くし絵」から模写されたのだと言われている。
『風雨に晒された彫り物』
近くなので、写真を撮り行って、複雑な思いになった。 内容は素晴らしく、当時の職人風俗の様子を30枚の板(縦30.3cm横175cm)に浮き彫りにし、本殿瑞垣の欄間に飾ってある。 だがあまりにも普通に、風雨に晒されてそれはあった。300年という年月は、無残だ。ほとんどの彩色は剥がれ、彫り物自体もかなり痛んでいる(もちろん何度も修復はされいるが)。 *彩色は、(1832)に、当時の長崎第一の画家であった石崎融思が修繕のため色づけしたものである と説明看板に書いてある。

一時期は、プラスチック板で保護されていたらしいのだが、逆に虫食いと湿気の被害で取り外され、1987年(昭和62年)に修復された経歴がある。 こういった時代を超えて存在する建物や美術工芸品をみていつも思うのだが、時の経過も確かに必要なのだが、なんとか保護できないのだろうか。

こんな感じの彫り物(医者.製薬人の図の一部)。

これは菓子製造の図の一部。

人形制作及び楽器の仕上げの図の一部。

これらは、一枚の絵図の一部なので、全体にはもっといろんな状況が描かれている。 ◇とりあえず、題名だけ記載(2枚が入れない場所で、一枚だけのタイトルが不明)。 漁撈の図/祭の行列 童子の獅子舞/紙製造の図/竹細工場の図/菓子製造の図/医者.製薬人の図/彫刻師.真田紐製造の図/瓦製造の図/人形制作及び楽器の仕上げ/餅作り及び桶商人の図/傘紙製の日本帽子鏡磨/筆墨製造の図/化粧箱製造の図/団扇製造の図/屋根葺の図/衣装縫師の図/莚製造の図/造船の図/刀槍製造の図/稲植えの図/弓矢.鞍製造の図/鎧 弓仕上げの図/機織染屋の図/祭器造りの図/建築用機師の図/琴 琵琶製造の図/碁盤製造の図/描画師の図/鍛冶屋の図/?/ 『文化財の保護』
私が若い頃は、長崎の南山手や東山手には、洋館がたくさん残ってた。どれも由緒あるものだったのだが、県の文化財指定になると、補修や保存に規制が派生する。しかし、保存に対しての助成金や直接的な保護は皆無? 当然朽ち果てるしか方法はなく、沢山の貴重な遺産が消えていった。 国宝指定となると、それなりの保護があるのだろう・・・。
かといって、グラバー園にあるいくつかの建物のように、元あった場所から解体され、補修されて移転した建物も、まったく風情を失くしている。なんら映画のセットと変わらないではないか。 それぞれの場所にある事で意味があるはずだと思うのだが。 「・・・のあった場所」という石碑ばかりの長崎。もうすこし先人たちの残した遺産を大切にしてはいかがなもんだろうか。文化の過疎地と陰口をたたかれないためにも。
ということでぜひ「職人尽くし」を朽ち果てさせないために、まずは大勢の方に現物をご覧になって欲しいもんです。そして、それが保存運動へとつながるはず。
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| 森の中の音浴博物館。 |
『閉じ込められた音が甦る』。

鳥の声と川のせせらぎの音が時折聞こえる森の中に、そこはあった。 もともとあった、小学校の分校跡(大瀬戸)を利用してつくられたのだとか。 63000枚のレコードと、数々の蓄音機。電気を通してないのに、その音の大きさにまず驚かされる。

好きなレコードを手にとりハンドルを手で回して、蓄音機の音を楽しむ事ができる。ほとんどがSP盤なので、やけに重い。 時代を超えて語りかけるその音は、どこか懐かしい響きだ。 たまたま通った森の小道で出会ったここは、まるで物語の中の世界のように、時が止まったまま訪れる人を待っているに違いない。(2001.5)*写真も当時のもの。
  
『日記リニューアルにあたって』
一番残念なのが館長の栗原氏が2005年5月23日胃癌で亡くなってしまわれた事。
栗原氏は、倉敷にいらっしゃった頃にネットにて新しい場所を探してらしたのをたまたまどこかの記事で知っている。縁があり大瀬戸の山の中に移っていらっしゃり、私が行った時は、まだオープンされたばかりの頃だった。 貴重な蓄音機やレコードを、惜しげもなく訪れた方々に手でじかに触って、音を出して欲しいと熱く語られていたもんだ。機械を飾るだけの博物館にはしたくないのだとか。その場所での夢もいろいろあったようだったのに、とても残念だ。 蓄音機を担いで、いろんなところでSPレコードをかける彼の活動などのニュースを見聞きするたびに、森の中の音浴博物館での出会いを思い起こしていたのだが。

氏が亡くなってすぐの頃に、新聞記事で知ったのだが、その貴重な蓄音機のレコード針を盗んだ人がいる事を。 そういえばかなり貴重なもので、ほとんど手に入らないとおっしゃっていたのを思い出す。それでも、無造作に誰でも触る事が出来るようにしてあったのに・・・。 戻ってきたのかどうか確かめてないが、もしその方がこの記事を読むことがあって、まだレコード針を持ってるのならば、ぜひ返して欲しい。それは氏が実現したかった夢の証なのだから。
2004年からは大瀬戸町立施設として再スタートし、2005年には市町村統合にて西海市立の建物となった。
『音浴博物館』 西海市大瀬戸町雪浦河通郷342-80TEL 0959-23-3004 開館時間 10:00〜18:00 休館日 月曜日 料金 一般 500円/小中学生 250円/小学生未満 無料
*2001.5の日記をブログにリニューアル♪
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| 隠れ切支丹教会の祈りが時を越えて聞えてくる。 |
『深堀善良谷教会へと向かう』 長崎半島を野母崎方面に向かい、深堀(前記の深堀騒動の武士の墓があるところ)の港から山道に入って行くと、山の中腹にその教会あった。 小さな集落のなかにひっそりと佇む教会。その前には夕日が沈む海の景色が広がる。 今でこそ、真下に新しい道路が通り、手軽に行けるようになったが、旧道の頃は、それは山奥の隠れ切支丹教会といった風情で、いっきにタイムスリップしそうになるような感覚になったもんだ。

次代に残す長崎の百景に選ばれたとあって、久しぶりに出かけてみると、20年前に行った時とまるで違って、舗装道路からすぐの場所で少々戸惑う。 なんというか、とても身勝手で申し訳ないが、残念な思いに囚われた。 時の流れは全てを包み込んでしまうのだろうなぁ、信者さん達には便利になった事だろうけど。
外海の隠れ切支丹7戸の住民がこの地に移り住んだのは文政6年(1823)の頃。 当時、長崎半島の入り口、深堀は長崎の所轄ではなく佐賀の鍋島藩の管轄だった。 しかし、貧乏な藩だったので、地獄の沙汰も金次第。かなりの切支丹を逃がしたらしい。いや、単にお金の問題だけでなく、もしかしたら凄烈な切支丹弾圧に心良くは思ってなかったのかもしれない。 幕府の切支丹弾圧はどんどんエスカレートし、このように、どんどん周辺へと信者達は散らばって行った。 そして、この教会のように何百年も隠れ切支丹の聖地として、ひっそりと存在しつづけてきた場所がいくつかある。
1952に現在の聖堂が再建されたそうだ。 日曜日には、下の町から神父さんもやって来てミサが開かれる。 教会の向かって右手を降りていくと、聖母を祭ったルルドがある。きちんと整備されてるが、何かしら時の重みが伝わってくるような重厚な雰囲気だ。

教会の眼下には見事な景色が広がる。外海にしても、この場所にしても、日が沈む海に神の姿を重ねてたのかもしれない。どちらも海に日が沈む。

この写真を撮りに訪れた時に、ちょうど信者さん達の井戸端会議ちゅうだったので、少しだけお話できた。 ずいぶんこの辺も変ったらしい。そりゃそうだ、私も持ってたイメージがまるで違う。 最初は場所を間違えたかと思ったもんだ。 最近は、長崎百景に選ばれた事もあって、沢山の人が訪れるようになったのだと寂しそうに話してくれた。確かに、賑やかさはココには似合わない。

教会の中をのぞくと、杖をつきながらオルガンに向かう信者の方の姿があった。 今の信者さん達は、すべてカトリックに改宗されてる子孫。一部の隠れキリシタンの方々は、密教として受け継ぐままに信仰し他の地へと移っていかれたそうだ。 すでに、神の姿は形を変え、時代とともに新たな信仰へと変って行ったらしい。
切支丹弾圧から400年経った今日も、祈りは声は途切れる事はない。
*2001.08の日記をブログ用にリニューアル♪
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