ながさきのへそ (長崎見聞録)
★生まれ育った長崎を再発見しようと、いろんな角度から切りこんでみました。あんまり人にゃ見せんばってん、大事か「へそ」。長崎のへそば、ちょっこっとばっか、お見せしましょか^^ ≪長崎おもしろトピックス≫
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平和祈念像のモデルは力道山?
『確かに似ている』。

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時代検証はどうだろう?
平和祈念像の作家北村西望長崎市に相談されたのが1950年。1951年に原案を提出し正式に依頼をうけ、4年がかりで完成。1955年の事だ。

その頃の力道山はどうしてたか?
1924年生まれ(自称)。1949年に関脇まで登りつめた将来有望な力士だったが、突然に1950年に力士廃業(自宅で髷を包丁で切り落とす)。
1952年に渡米しプロレス修行。帰国後日本プロレス協会を設立する。
ちょうど1953年暮に初めて日本でTV放映開始。翌1954年には、NHKと日本テレビの二元中継でプロレス中継され、まだまだTVが家庭には普及してなかったので、人々は街角TVに群がっていた。
黒のロングタイツ姿の「力道山」が外人プロレスラー相手に、空手チョップでバッタバッタとやっつける姿に、人達は熱狂した。
まさに、ヒーローそのものだった。

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北村西望平和祈念像制作活動まっ最中に、突如、日本人のヒーローとして登場した力道山
彼をイメージしてつくった可能性はとても大きい。
おまけに、西村西望が島原出身ならば、力道山も大村の農家出身ということで、同じ郷土出身という事で縁がある。

ところがここで、ひとつの 疑惑が・・。

力道山は、1940年の初土俵の時には、長崎県大村出身(当時16歳)となっているが、実は北朝鮮出身で、在韓時代にすでに結婚していて子供もいたという。とすると実際の年令もかなり上だったのだろう。現在と違って、日本人でない横綱はありえなかった。その事実が彼の突然の引退の原因とも言われている。
現在の、2人横綱がどちらも外人力士なのは、想像も出来なかったに違いない。
まぁ、力士を廃業した後に、その大村の農家の養子となり日本帰化しているので、同じ郷土と言えない事もない。

北村西望氏は、親しい関係者にも力道山をイメージしたという事は一切言ってない。
誰がモデルだったかの質問にも、モデルはいなかったと答えるのみだったとか。
その答えは、彼が平和祈念像の裏側に刻んだ言葉にある。

kinenzou.jpg

『あの悪夢のような戦争
身の毛もよだつ凄絶悲惨
肉親を人の子を
かえる見るさえ堪えがたい真情
誰か平和を祈らずにいられよう
茲に全世界平和運動の先駆として
この平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲
それは逞しい男性の健康美
全長三十二尺余
右手は原爆を示し左は平和を
顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
是人種を超越した人間
時に仏 時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
今や人類最高の象徴』
昭和三十年 春日 北村西望


強いて言えば、モデルは神だと。
人間であってはいけないし、ましてや暴力団と喧嘩のあげく、死んでしまったプロレスラーであってはいけなかったのだろう。

平和祈念像の説明看板」
神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。右手の人差し指には避雷針が設置されている。


片やそのモデルでは?と言われた「力道山」は、人々のヒーローとして大活躍する。
1963年5月24日「WWA世界選手権TV放映」では、64%の高視聴率(現在もなお歴代視聴率4位)をとるが、前記のように年齢詐称による肉体の衰えや、北朝鮮出身である事の秘められた過去などによって、いろんな問題が重なり苦悩した日々であったようだ(実子達も、彼が死ぬまでその事実を知らなかったのだとか)。
1963年12月8日 に暴力団員との喧嘩で入院。

12月15日死去。

皮肉な事に喧嘩で刺された傷ではなく、事件を隠そうと知人の産婦人科に入院し手術。術後は良好だったのだが、腸閉塞による再手術で担当の麻酔医の処置ミスで亡くなったのだとか。写真のように、彼の太い首が逆に災いし、手術の麻酔の為に禁弛緩薬投入後の気管内チューブの気管挿管に失敗したせいだとその麻酔医が後に本人が亡くなる前に告白している。彼の太い首のおかげで人工呼吸が出来ずに、無酸素状態に陥ったのが死因だったのだとか。鍛えぬいた肉体が自らの命を絶つ原因になろうとは・・・。

長崎に住んでいながら、平和公園の近くは通るものの、実際に平和祈念像と対面したのは、今日がずいぶん久しぶりの事だった。相変らず、観光客の方々が、のどかに写真を撮ってる。なかには平和祈念像と同じポーズをとってる人もいる。原爆という悲惨な過去の出来事がどれだけ伝わっているのかは、はなはだ疑問だが。

突然、平和祈念像が立ち上がり、空手チョップを振り下ろす錯覚に囚われ、そそくさと平和祈念像を後にした。私のなかでは、やはり「力道山」なのだなぁ。
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鉄砲ん玉の謎
『大波止に

玉はあれども大砲なし』


鉄砲ん玉
(現在は設置場所が変ってます)。

ドラゴンプロムナードの入り口のところに鉄の玉が飾ってある。
554.7Kgの巨大な鉄の玉は、実は、大砲の玉だそうで、島原の乱(1637~1638)で原城を地下から破壊する為に作られたそうだが・・・。大砲が完成する前に、地下のトンネルを発見され作戦は中止。玉だけ残ったそうだ。
しかし、これだけの玉を打ち出す大砲となれば、とてつもない大きいものになった事でしょうね。

*2000年の日記をブログ用にリニューアル♪

現在は、「夢彩都」の入り口に移転してる。

ところで、ここでさらなる謎

が!!


この鉄の玉の形状や成分などを計測した結果、実用としての大砲の玉とするのは疑問だという話が濃厚になってきた。
考えてみると、大砲の玉だとして、先に玉から造るか?そんな事はありえない話。大砲を造ってから、玉をつくらないと、寸法が合わないと大変だしねぇ。
とすると、一体これは何?
鎖国で唯一の世界に開かれていた港として、訪れる外国船に対して威嚇してたのかもしれない。実際に、玉の内部は空洞の可能性が大きいのだとか。

港開発のたびに、場所を移ってはいるのだけど、370年以上もの間、長崎港のシンボルとして存在してきた「鉄の玉」。当時の鋳造技術としてもかなり高い技術を要した事だろう。

2007年5月1日に「大波止の鉄玉」として長崎市の有形文化財指定とされた。
やはり、伝承されてきた「鉄砲ん玉」とするには、あまりにも根拠がないからなのかな。
まぁ、「鉄玉」という呼び方も昔からあるそうだし、そんなに抵抗はないかも。
できれば、デパートの片隅ではなく、海を望む場所に移して欲しいもんだ。

*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル♪ (追記あり)。
今にも落ちそうな「鯖くさらかし岩」。
『岩角に

たちぬる石をみつゝおれば

になへる魚もさはくちぬべし』

蜀山人・大田南畝


鯖くさらかし岩

ハウステンボス方面から長崎市内に入る直前の時津町にあるこの奇岩は、一見の価値があるかもしれない。
昔、落ちそうで落ちないこの岩かどにたつ岩を見て、道を通る事が出来ずに、持ってた魚(鯖)を腐らせてしまったとか。

現在は、下の岩とボルトで固定されているので落ちる事はないらしいが、いつの頃から佇んでいるのだろうか。
今みたいにビルが立ち並ぶ時代ではなかった頃には、さぞかしすごい光景だったに違いない。
まぁ、出来ればボルト固定とかしないで、度胸試しのスポットとして残して欲しかったもんです(無理無理(^^ゞ)

≪立看板による説明≫
継石坊主 (鯖くさらかし岩
雲の流れ、陽の光によって面相が変わるという。徳川時代、一世の狂歌師として有名な蜀山人・大田南畝(長崎奉行所支配勘定方)が長崎在勤中の文化二年(西暦1805年)時津に遊び、この奇岩を眺めて、「岩角にたちぬる石をみつゝおれば になへる魚もさはくちぬべし」と歌ったので一躍名高くなった(時津町教育委員会)


*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル♪
「女の都」行きのバスが通る!?
『憧れの女の都

ずっと住んでて、その名に親しんでいる人達にとっては何でもないかもしれないけれど、初めて見た時には、思わず乗り込みそうになった。

女の都行き

なんじゃそりゃ、と驚くことなかれ。ちゃんとした町名なんですよ。
昭和50年前後に町名変更されたのだが、わたしゃ、ちょうど長崎を離れていた時期で、戻ってきてこの町名を見た時の驚きをお判りいただけるだろうか。家に帰って、大騒ぎしたもんです。

まぁ、読み方は『おんなのみやこ』ではなく、残念ながら『めのと』。
長崎に初めていらっしゃった方の、ほとんどの方の目を引く『町名』だ。
しかし、町名を決定する時に、反対はなかったんだろうか・・・。
他にも『ダイヤランド』とか『エミネント葉山』とか『ハウステンボス』とかハイカラな名前の町が存在する長崎です。

*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル♪
自転車通行禁止の坂があったりして・・。
長崎に自転車が少ない理由』

写真の上の交通標識がわかる?なんと「自転車通行禁止」の標識なのだ。
あまりの勾配で危ないので乗っては駄目だという事なのだろうか。

オランダ坂

場所は『オランダ坂』。
本当はこちらが本家本元の『オランダ坂石畳』。絵葉書で有名な方の『オランダ坂』は、時代的には、かなり後で崖を切り通して造った道。
この坂を登ったところに、日本最初の教会があって、そこにかよう居留地の外人さんを見てこう名づけられた。当時は外人はすべて『オランダさん』。他の場所も外人さんが良く見かけられる坂は『オランダ坂』と言ってたらしいので、他にも長崎の街にはかなり沢山のオランダ坂があるようだ^^;

右手にちょっぴり見えるのが、洋館群。
中に入れるように開放してある。そのうちの一軒は、日替わりで世界の家庭料理が食べられる国際交流の場のお店がある 『東山手地球館』。 長崎在住の外国人(留学生やその家族、お仕事で来られている方などの外人さんがそれぞれのお国の家庭料理を作ってくれる。

この坂を通る観光客から、時折、悲鳴が飛び交ってる。『こんな所は、住めない~!!』なんて叫んでらっしゃる。
あまい、あまい。この程度で驚くようじゃ、長崎は語れないな^^

*2001年7月の日記をブログにリニューアル♪
隠れスポット「しろんこし」。
『不思議な空間』

諏訪神社から鳴滝の方に歩いていくと、左手に小高い丘がある。
鳴滝と片淵の間の丘というか小さな森。
この日記の時には無かったが、今では片淵中学校(お城みたいな校舎の)が近くに出来て、もうすぐ、鳴滝と片淵間も車で行けるようになるとか。

港が見える

この小高い丘は岩場で囲まれ、まるで自然の要塞のようになっている事から、「城の古址」と書いた書物もあるが、ここに城があった事実は無い。というのも、あまりにも狭いからだ。
その奥の方の建山や焼山に館城(鶴城)があり、その城を望む「城の越し」が本当だろう。
春徳寺の脇の道を登っていくと(今は途中まで整備されてる)、ポッカリと岩場の空間にでる。そこが「しろんこし(城の越し)」だ。
鶴城は、「長崎港を開港した殿様の悲運。 」で書いた「長崎甚左衛門純景」の祖先にあたる長崎小太郎重綱から代々続く「長崎氏」が居城していた。

森を抜けて、港が一望できる見晴らしがいい空間で落ちつく場所。
広さもそんなになく、不思議な場所だ。正面に長崎港、右手に諏訪の森、左手はすぐそばに鳴滝の「シーボルト記念館」がある。
この岩場には祠があり、「竜頭巌」というひときわ大きな岩にある。
寛永7年のこと、長崎代官3代目末次平蔵茂房がこの「しろんこし」の先祖の墓をつくろうと、「竜頭巌」を砕いて墓石の削岩工事はじめたそうだ。
すると、驚いた事に、その岩肌から鮮血がほとばしり工事は即刻中止。まもなく平蔵は、密貿易の罪により、お家断絶の目にあう。
人々はタタリだと噂しあったとか。そこに「不動明王」が祭ってある。

竜頭巌

鉄の扉の奥にある「不動明王」

不動明王

「竜頭巌」には大蛇の伝説もあり、やはり尋常ではない場所の雰囲気だ。

グーグルマップ
こうやってグーグルマップでみると、今ではほとんど緑が無くなっているのが判る。
私らが小さい頃とまるで違う土地みたい。大丈夫なんだろうか・・・地球。

*2000年の日記をブログ用にリニューアル♪
開かずの信号の謎。
『えらい短気な信号機』。

新大工商店街をぬけて、諏訪神社下のロータリーに出る信号がその謎の信号。
見てる間も、たまりかねた車が一台、スルスルと赤信号なのに出て行った。
それにしても、赤信号が長い事。
おまけに、青の時間が無茶苦茶短い。せいぜい2~3台しか出れないほどにあっというまに信号が切り替わる。
近くに停車中のタクシーの運転手に聞いてみた。

「この信号は壊れているのですか?」

「ここは2回に1回しか青にならんとよ、おまけにすぐ信号が変わるしね」との事。

そこで、さっそく、タイムを測ってみました。
2回、周りの信号が変わる間、ずーーと赤信号。その間なんと5分。驚
くのは、まだ早い。青に変わって、3秒後には黄色へと無残に変わってしまいました。
これじゃ、ほとんど出れない。
トロイ運転手が先頭にいたら、ほとんど皆動けず永遠の信号待ち状態に陥りそうな、あり地獄のような信号でした。
*これも、かなり昔の情報なので、すでにシステムが変ってるかも。
近くなので、ウラとってきますね。とりあえずアップしとこ。
このロータリーは立体交差になるという話なので、この信号の存在は貴重かも。

3秒って全国でも記録争いかもしれない。

諏訪神社下のロータリー

*1999年9月の日記をブログにリニューアル♪
なんと、道の真中に大木が・・・
ここは、ミステリーポイントNO1だろう。

他県から来た人を、黙って車に乗せて、この道に入ると、見事に驚いてくれる。
しかし、くれぐれも運転させないで助手席に乗せること。

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一瞬、右を通るのか、左を通るのかも迷ってしまうほどの大木が道の真ん中にデーンと出現。
さらにここを下って行くとスラロームになった細い道のアチコチに木が道を妨げて、それは遊園地に来たのかと錯覚しそうな感覚に陥る。
ここは、夜景ポイント立山からお諏訪神社の森を抜け県立図書館脇に抜ける道。
夜はさらに驚き度がアップすること間違いない。

*1999年の日記をブログ用にリニューアルしてます。
坂の力持ち「ウマヤサン」の馬
坂の町、長崎の工事現場で良く見かけた風景が、馬で荷物を 運ぶこのシーン。
初めて見た人は、ビックリするだろう^^ 鼻息荒く、馬が坂を登ってくると・・・・。

『かなりの迫力』。

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でも最近は、とんと見なくなった。
たまたま出会って、懐かしく 写真をゲット。
この「ウマヤサン」と呼ばれる、馬を使って荷物を運ぶ職業も、市内で2軒に減ってしまった そうだ。
狭い階段が連なる長崎の町で、欠かせぬ存在だったのに、時代と共に消えていってしまうんだろうなぁ。
今ではキャタピラで階段を登る機械がそれに変っているのだとか。
ちなみに、 この馬は、お諏訪さんのお祭り「おくんち」では行列にも参加する有名馬だ。

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*2000.3.22の日記をブログ用にリニューアル♪

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