ながさきのへそ (長崎見聞録)
★生まれ育った長崎を再発見しようと、いろんな角度から切りこんでみました。あんまり人にゃ見せんばってん、大事か「へそ」。長崎のへそば、ちょっこっとばっか、お見せしましょか^^ ≪長崎おもしろトピックス≫
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ねずみ島にタイムスリップ。
今では陸続きになって、工業用地として無残な姿になっているが、昔は島まるごとが海水浴場として営業していた島が長崎港の入り口にあった。
その名もねずみ島

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周囲が600mのその島を知ってる世代と知らない世代は、はっきりと分れる。
環境問題で閉鎖されたのが1972年の事だから、その頃に小学生だった世代で、その存在を知らない世代が増えていく。45歳ぐらいがその境目だろうか。

なぜ、小学生?というと、その島で水泳教室が行われていたのだ。
そこは、子供達の夏のパラダイスだった。いや、違う。ある意味では地獄の教練所。楽しくもあり、厳しくもあり、怖面白い水泳道場。(写真の女神大橋の左の小さな島のような部分)。

しかも、市内の小学校で会員を募集していた。

入会すると首からかける木札をもらう。それが会員証だ。その木札の紐に、お小遣いの5円玉を何枚か通し、それで買うのがはじき豆。それを木綿の袋に入れて泳いでいると、ふやけて塩味が程良いオヤツになる。

大勢の子供たちが船に乗り込む。

島に渡るのは、大波止から団平船に乗り込む。すぐに島に着くのだが、それもまた楽しい。島は周囲が600mと小さい島。そこに一般海水浴場の浜と子供達の水泳会員の浜とあわせて4つの浜があったようだ(かなり記憶が定かではない)。会員は一般海水浴場では泳いではいけなかったのだが、小さな島だったので、アチコチ探索してたっけ。物凄い人数の子供たちが島での夏の海を満喫していた。学校も学年も何も無い子供達の解放区だ。

帽子でランク付け。

水泳会員は、甲・乙・丙・丁という段位に別けられ、それぞれまた順位の小グループに分れて帽子の色や線で区別できるようになっていた。はやく違う色の帽子を被りたくて、頑張って昇段試験を受けていたもんだ。実力以上の段を受けて、試験中に溺れそうになったのも今では懐かしい。

かの柔道家の姿三四郎がつくった。

姿三四郎のモデルになった柔道家の西郷四郎が講道館を去り、長崎で勤めていた新聞社の記念事業として始めた「水泳教室」。その後、小堀流の古式泳法「長崎水泳教会」として引き継がれ、長年、子供達に泳ぎを教え続けていた。1972年に長崎外港埋め立て計画により閉鎖した後は、「水泳教会」の場を市民プールへと移して現在も続いている。

ねずみ島の今。

ねずみ島が閉鎖されて、もう35年も経つんだなぁ。
という事で久しぶりに(45年ぶり)行ってきた。
島への入り口はすぐわかった。

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陸続きになってるとは聞いていたのだが、島は工業用地として埋め立てられ「皇后地区公共埠頭」として存在していた。正式名称は「皇后島」というらしい。

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唯一残っていた桟橋から先の子供達の教練の浜は埋め立てられて当時の思い出はまるで無い。かろうじてひとつの浜(一般海水浴場?)だけ当時の雰囲気を残していた。

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当時の想い出の欠片を探したが、さすがにもう何一つ残ってない。
ねずみ島の父と言われる田中直治師(第六代主任師範)の銅像だけが、浜辺に残され、かろうじてここが「ねずみ島」と判る。

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これだけの狭い場所を工業用地とする必要があるのか?
あの素晴らしい構想で長年続いた「ねずみ島」を、想い出の地として残せなかったのかな?と思う。

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今からでも遅くないので、「記念公園」として後世に残して欲しいもんだ。
あの子供たちの夏の解放区。

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ツキノワグマの太郎を偲ぶ
長崎に ツキノワグマ がいたのを知ってる?

太郎という立派な名前を持ってた。
実は何代も同じ名前の太郎がいたようだ。
おくんちの奉納踊りがある諏訪神社の左手にある小動物コーナー。
ぼたもちで有名な月見茶屋の崖の下にある。
今は、主がいなくなった檻だけが寂しく存在してる。
猿や孔雀やワラビーなんかはまだいるが、そのコーナーの存在さえ知らない人が多い。

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最後に彼を見た時には、かなりストレスで参ってたようだった。
頭を何度も檻にぶつける仕草が痛々しかったもんだ。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こんな記述が残っている。

>1978年5月から1999年4月までクマ(エゾヒグマとツキノワグマのハーフ)の太郎が飼育され、動物広場では人気を集めていた。

そうかぁ、太郎はハーフである事を悩んでいたのか・・。
しかし、頭の片隅には過去に同じ名前の太郎が数頭いたという記憶があるが・・。
これについては、追跡調査のちに、またアップしよう。

これはネットで拾った純血ツキノワグマ
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戦艦『武蔵』誕生秘話。
『戦艦大和の双子の弟艦武蔵

は、長崎で誕生した』。


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第二次世界大戦時における日本帝国海軍の世界に誇る戦艦「大和」は有名だが、それと双子の超大型戦艦「武蔵」の存在は意外と知られていない。
軍は広島の呉で「大和」を建造しつつ、長崎の三菱造船に同型の大型戦艦「武蔵」の建造を依頼する。真珠湾奇襲攻撃の2年半前の事だ。その2隻は瓜二つだった。

1938年3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工。

全ては秘密裏に遂行された。

当時、まだ戦争には突入してない。長崎にはアメリカ・イギリスなど多くの領事館があり、三方を山に囲まれた狭い街にすり鉢状の港。その機密保持には建造以上の労力が費やされた事だろう。実際に建造に携わる従業員にもほとんど計画の全貌は知らされていなかった。
造船所が見渡せる対岸の港に面する道路には倉庫や壁で埋め尽くし、さらに、建設ドックはシュロの網で覆われた(しかも大量に必要だったために、九州全域から集められ漁業用の網が不足し高騰した)。

1940年 11月1日 進水式。

「防空演習」と称して地域住民を外出禁止にし、2000人近くの軍人や軍関係者を配置してのちに、それは行われた。
問題は、港の狭さだ。全長263.0mの船体が港に滑り込む。対岸までの距離は680mしかなく、計算を間違うと対岸に激突してしまう。
ちなみに建造中に火災を起こした世界最大級のクルーズ客船「ダイヤモンドプリンセス号」は、290.0m。あの巨大さに匹敵する戦艦が70年近くも前の長崎港に浮かんでいたとは。
無事、3000トンもの巨体を220mを残す地点で停止させ進水は成功した。それでも港の水位は50cm、河川でも30cm上昇し、民家の床上浸水があったと報告されている。それほどに大きな船体だったんだろう。日本が作った最後の戦艦となる

戦艦「武蔵」の進水だった。

現在までの三菱造船所で作った数々の船のなかでも最大級だ。
その後、広島の呉に移され戦艦として完成。
1942年8月5日に就役し戦線に配備される。

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それより1年前の1941年12月8日未明、日本はアメリカハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、戦争へと突入していった。
武蔵」は予定よりもはるかに遅れて完成し、戦線に投入されるが、戦艦戦の時代はすでに終わり、空母で移動する飛行機攻撃の時代に移り替わっていた。「武蔵」の対飛行機の装置は、ほとんど役に立たず、 大量の燃料を必要とし、重く動きも遅い超大型戦艦は、過去の遺物と化していた。しかも、アメリカに空母大量生産路線へと導いたのは、日本軍の零戦による真珠湾攻撃だったというのも皮肉なもんだ。

1943年2月12日 戦艦「大和」に替わって、改良型の「武蔵」は連合艦隊の旗艦となる。

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1944年10月24日19時35分。 沈没。

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比島沖海戦にて米空母機の集中攻撃を受け魚雷20本、爆弾17発以上の命中により、ルソン島南方シブヤン海に沈んだ。炎上しながらも9時間近く持ちこたえたのちの事だ。それは武蔵坊弁慶の「弁慶の立往生」のごとき姿だった。
不沈戦艦のはずだった「武蔵」は、航空機の攻撃に意外に脆かったのだ。戦艦同士の対戦には絶対的な防御能力と攻撃力を持ち、日本海軍の旗印として絶大なる力を発揮する予定だったのだが・・。実際には、戦闘に関わる事はほとんどなくその歴史を終えた。兄弟艦「大和」も1945年4月7日に、鹿児島県坊ノ岬沖海戦にて沈没する。

時代をさかのぼる事、明治37年。日露戦争勃発で、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日本海軍の新型戦艦。その戦艦神話が戦艦「大和」や「武蔵」に託されていたのだろうか。

一部の人間の思いあがりに、道連れにされ命を落とした多くの日本兵。
何の為に戦うのかの疑問さえも考える事を許されず、船とともに海の藻屑となり、南方の孤島で玉砕し、特攻機で飛び立っていった多くの若者。
悲惨な歴史は繰り返してはいけない。

長崎の港で誕生した戦艦「武蔵」の歴史は、苦い記憶として記録に残しておくべきだろう。
路面電車会社のバスが走る
路面電車会社の電鉄バス』。

意外な事に、全国には今でも路面電車が沢山残ってる。
長崎だけかと思ってたら、まだまだアチコチで元気だ。
九州でも鹿児島・熊本・長崎の街で路面電車が健在だ。
長崎では「長崎電気軌道株式会社」が運行。
通称「デンテツ」言ってたけど、今では「デンシャ」かな。

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どこまで行っても100円という手軽さ(長崎では20年間据え置き料金!!で全国的にも格安)に、市民の足として親しまれている路面電車だが、実はバス事業をやってたのを知ってる人は少ない。
1953(昭和28年)~1971(昭和46年)の18年の間、街角を走ってた「電鉄バス」。車体カラーもあの電車カラーと同じ。結局、民間バス会社同士の路線が競合し赤字となったために「長崎バス」に譲渡されたのだが、ウチのすぐそばが終点バス停だったので、よく覚えてる。

その時点では最後の路線で「昭和町」-「片淵」間の運行。ところが、こんなところにバスが走ってた?と驚かれる事間違いなしの細い道なのだ。玉屋デパートのちょい先から新大工町商店街の入り口の前を通り長崎大学経済学部グランド方面に向かう道。「スタジオDO」や「済生会病院」の前の道で、当時は今よりもっともっと細い道だった。
グランドにぶつかる交差点で起用にUターン。今だと確実に交通渋滞が起こるだろうし、今の運転手じゃ切り返しできないかもしれないぐらいの小さな交差点。しかも、当時のバスはボンネットがつきだした旧タイプだったので、さぞかし運転しにくかった事だろう。たまに民家の軒下にぶつかり壊してた。1968年(昭和43年)にワンマンカー(電車もバス)になるまでは、車掌さんがいて、笛を吹きながら誘導してたのも懐かしい風景だ。

ところで電車の話に戻る。

なんで「チンチン電車」?

昔は、客が降りる合図をする時に、紐をひいて、「チンチン」と鳴らしていたのだとか。
今では、ブザーに変わってしまってるが、時折、記念日なんかに走る昔のオールド車両では、いまだに「チンチン」と合図を送る装置がついている。

薬袋に入ったつり銭。

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両替をすると、パラフィン紙に入ったつり銭を渡される。
レトロだ。
それは、まるで粉薬が入った袋みたい。
料金箱も、これまたひと昔前のデザイン。
運転席が前後ろにあるので、この料金箱は、持ち運びできるようだ。

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今年の3月から「スマートカード」も導入された(まだ全車両は搭載されてない)。いつかはこのつり銭袋も姿を消すだろうなぁ。

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「1日乗車券500円」 は観光客には好評。全停留所

に掲示してあるQRコードを携帯電話に読み込むと、周囲の観光地図と「1日乗車券発売所の案内がある「観光ナビネット」は、誰でも無料で利用できる。

夏の納涼「ビール電車」。

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夏の目玉で、売り出されたとたんに完売してしまう人気なので、購入はお早めに。
毎年7月から8月はじめの1ヶ月。1時間30分かけて「正覚寺下電停」を出発して、長崎の夜の街を走り、また戻ってくる(各自水曜~土曜定期運行/火・水曜貸切)。6月頃に発売予定。

街の風景が変った。

久しぶりに長崎に戻ってきた人は、なんだかスッキリした街並みに「あれ?!」と思うはずだけど、それが何なのかは、すぐには判らない。
実は、以前は電車への電源供給の電線が、道いっぱいに網の目みたいに張り巡らされていたのだ。それを軌道敷きのセンターポールへと収めてしまってスッキリ。これは県の電柱の地中化工事に伴っての変身だけど、街のイメージが随分変った。ただ、センターポールのために、今までのように軌道内中央に段差が出来たので、車は一部交差点以外のところでは横断できないようになった。

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浦上の「西洋館」のこと。

実は、この複合商業ビルは、長崎電気軌道の経営だ。
建築当初は、ビルの中に電停を設けて、ビル内に出入りできるような設計だったのだけど、完成間際に消防署からのクレームで実現しなかった。残念!!

「乗り継ぎ券」って知ってる?

どこまで乗っても100円がウリなんだけど、どうしても乗り換えないといけない場所もある。そこで実は「乗り継ぎ券」をもらえるのだ。築町電停で降りて1系(正覚寺下-赤迫)と5系(蛍茶屋-石橋)の乗り継ぎする場合に限られているが、その場合だと、降りる時に「乗り継ぎ券をお願いします」と申告するともらえる。もちろん言わないともらえません。

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最後にアドバイス

このブログにたどりついた他県の観光客の皆様へ。
長崎の路面電車の地図は、一般的な線路と違って、電停と電停の間隔がとても短い。下手すると、信号の都合で歩いた方が近い場所もあるので、くれぐれもご注意下さい。1日乗車券持ってると、関係ないけど。後は、乗られた電車によっては、全国各地から払い下げられた電車もあるので、電車内に掲示してある生い立ち書きに注目。もしかしたら、あなたの住んでる街からやってきたのかも。
新しい快適機種から、レトロな貴重な機種までいろんな電車が走ってるのも楽しみのひとつですね。
全身広告のカラー電車も面白いですよー。

*写真は撮影後に追加アップする予定です。
城山小学校の桜が語る平和
『あの日の惨状を忘れない』

戦前の城山小学校は、それはそれは美しい桜が校舎を取り囲み、見事に咲き誇っていたそうだ。
爆心地からわずか500mの距離にあった長崎城山小学校は、この瞬間に悲しい歴史を背負うことになる。教員26名(他に校外被爆2名)、用務員2名、児童 推計 1400余名(家庭において被爆)、兵器製作所員58名、女子挺身隊員10名、学徒報告隊員42名、計110名(200名という説あり)が死亡。

その悲しい想いを超えて今年もまた、この小学校に桜が戻ってきた。

sakura2.jpg 十五の桜

十五の桜 (写真右)
被爆前の桜に囲まれた学校の面影を胸に、卒業した年にちなんで卒業生らが同校に寄贈した十五本の桜。
被爆した友人たち、家族への思いと、学校に通う後輩たちへ平和の大切さを引き継ぎたい気持ちを込め1997年に植樹された「十五の桜」。
この桜を植えた昭和15年卒業の生徒達のクラスの担任が、私の母だった。母はその後、原爆が落ちた年に転任となり、おかげで私もかろうじてこの世に生を授かる事が出来た。

嘉代子桜(写真左)
ここ城山小学校には、もうひとつ歴史を語る桜がある。それは「嘉代子桜」。
当時長崎県立高女の4年生で、学徒報告隊員として城山小学校にて仕事をしていて爆死された林 嘉代子さん。遺体は,原爆投下から22日目の8月30日に校舎3階で見つかった。
ご両親は,嘉代子さんが生前好きであった桜の苗木を数十本寄贈して、我が娘を思う。(S.24)

今春も、桜達は見事な姿を見せてくれた。まるで時を超えてきたかのように、いつまでも平和であれと語りかける。

夏にはまた、原爆の日には、長崎で一番熱かった日を思い出させる。

1945年8月9日午前11時02分。
一瞬のうちに、この世に地獄が出現した。
長崎に原子爆弾が炸裂した瞬間だ。
当時の人口24万人(推定)のうち約14万8千人が死傷(死者約73,900人、負傷者約74,900人、消失面積6,702,300m2、全焼全壊計約12,900棟)、建物の約36%が全焼または全半壊。


爆弾のコードネームは「ファットマン」。B-29爆撃機ボックスカー(機長: チャールズ・スウィーニー少佐)によって投下され、現在の松山町の上空550mで炸裂した。

原爆投下前の浦上 原爆投下後の浦上
原爆のキノコ雲

写真は左が原爆投下前の爆心地付近(長崎市浦上地区)
右が投下後の同一地点。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

*1999年8月の日記をブログ用にリニューアル♪(追記あり)。
長崎版忠臣蔵の深堀騒動。
時は元禄13年(1700年)、暮れも押し迫った12月。
権勢と威光をかさに着て威張りに威張っていた悪名高き「町年寄」の高木家に、深堀家の武士21人が討ち入り。市民から大喝采を浴びた。

『深堀蕃士の討ち入り』。

大音寺坂
●発端となった事件があった大音寺坂。現在の法務局の横の坂。

のちの赤穂浪士の討ち入りに、攻撃方法が参考にされたとかいう話もある。
しかし、事の発端はちょいと情けなく、深堀家の家臣の老武士二人が高木家の下っ端に、町ですれ違った際に喧嘩になり、いったんおさまったが、その夜に高木家10数名の殴り込みに合い、馬鹿にされたあげく武士の魂である刀を取り上げられた。
それでも、次の日の早朝、さすがは「葉隠れ武士」の佐賀藩士(深堀家は佐賀藩だった)。
*当時、長崎は天領として幕府管轄。周辺警備に佐賀藩がまかせられていた。

「武士道とは

死ぬ事とみつけたり」 。

と、死に装束をまとった総勢21人の深堀蕃士の討ち入りに、町の人々は驚いたに違いない。
結果、討ち入りは成功したが。参加した武士の12人が切腹、あとの9人は五島に流罪となった(合掌)。
長崎半島のねっこにある深堀には、武家屋敷跡とともに切腹討ち死にした侍達の墓がある・・・。 

刀を奪われたのは「深堀三右衛門」と「志波原武右衛門」。三右衛門は高齢のために杖をついていたのだとか。討ち入りを果たした三右衛門は、その場で切腹。武右衛門は、引き上げの際に中央橋(くろがね橋)で切腹。大勢の民の前で、騒動の責任をとったのだろう。この2人とともに最初に高木邸に突入した9人は切腹死罪。
応援にかけつけた9人の武士達は、五島へ流島。
最初に、五島町の深堀屋敷におしかけ、乱暴狼藉を働いた高木家の使用人達で生き残った8人も死罪斬首となっている。


*1999年2月の日記をブログ用にリニューアル♪
長崎港を開港した殿様の悲運。

『栄光と悲劇を経験した殿様』。

長崎甚左衛門純景」は、長崎最後の殿様だった。
またの名を「ベルナルド」。キリシタンの洗礼を受けている。
義理の父親である大村の切支丹大名「大村純忠(洗礼名ドン・ベルトラメウ)」とともに、南蛮貿易の拠点と切支丹の安住の地とすべく、イエスズ会の宣教師や神父とともに長崎港を開いた。
1571年の事だ。

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平戸やその他の地の「ヨーロッパと貿易はしたいが、キリスト教は嫌」とする各大名と違って、積極的にキリスト教を受け入れ、長崎の各地をイエスズ会に寄進し優遇する事で、貿易港として確立させていった。
そこには、しっかりと先を見据えたビジョンがあったと思われる。

世界中の船を呼ぶには教会や宗教の力が必要だということ。
それを妬んだ周辺の豪族らの侵攻にキリシタンらとともに幾度も防衛し、長崎を守ったのも彼らだ。

しかし、神は彼らに試練を与えた。

1587年の豊臣秀吉の宣教師追放令にともなって、翌年長崎は天領として取り上げられ、1605年に自らの領地も大村領に換地され、14代目の長崎の最後の殿様は、開港に賑う長崎を去る。
大村で百石扶持で隠居生活をしていたが、晩年長崎市の燐町「時津町」 に移り余生を送った。

鎖国時代の唯一の港として栄えた長崎を、彼はどんな気持ちで見守っていたのであろうか。
この彼の像は、諏訪公園にあり、彼の墓は時津にある。
長崎開港の立役者は、その地に戻る事を許されなかったようだ。

【秀吉の言い訳】
突然、宣教師追放令を下した秀吉は、その直前に宣教師側に詰問状を出している。

1.パードレ達は、なぜ、日本人を無理にキリシタンにするのか?
2.なぜ、信者を扇動して神社・仏閣を破壊し僧侶を迫害するのか?
3.なぜ、耕作に必要な牛を食うのか?
4.イエスズ会は、なぜ、ポルトガル人が多数の日本人を奴隷としてインドに輸出するのを許すのか?

長崎においては、確かに多くのキリスト教徒が神社・仏閣を焼き討ちし、破壊し教会を建てて行った。
そして僧侶たちが多くのキリスト教徒から迫害されていたのも事実だ。
あまたの女性がポルトガル人によって、さらわれ、南方に奴隷として売られていた事も、これまた事実である。
その後、目にあまる宣教師達の強引な伝道に、1612年、秀吉は、貿易は許すが、キリスト教は許さないという

「キリシタン禁教令」 出す。

さて、この秀吉の決断がその後の歴史にどう影響したかは、まだ結論が出ていない。

≪開港前の長崎の図≫
開港当時の長崎
●『元亀開港以前の長崎』丹羽漢吉氏作画(嘉村国男編「長崎の招待」文献社より)

長崎甚左衛門と宣教師たちが発見した当時の『長崎』。
絵の中央の細長い岬。その“ながいみさき”だから長崎 といわれていた。
現在の市役所から県庁にのびる細長い岬だ。
先端の岬に現在の県庁がある。その周りは、まだまだ小さな漁村だったようだ。
今の地名に浜とか浦とか付いてるのは、その頃の名残りだろう(浜口、浜の町、浦上・・)。
奥は浦上川の奥まで入り江が入りこみ、手前は、蛍茶屋付近まで入り江があった。
当時の『長崎村』は、桜馬場郷(桜馬場)、中川郷(中川)、片淵郷(片淵)で、長崎甚左衛門はそこに居を構え、他の豪族達の攻撃に応じていた。

*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル。
西坂の丘に散った殉教の徒
『ガウディ風な塔がそびえる』。

長崎駅に降り立つと、目の前の左手に小さな丘がある。
そこで、70年間に600人の切支丹がその西坂の丘で、はりつけにされた。
26聖人像のレリーフのそばにそびえる2本の塔は、天使の双翼 をかたどり、左の塔から祈りが天に昇り、もうひとつの塔に恩寵が降りるといわれている。

双翼の塔

26聖人は、悲劇の最初の殉教者達で、京都・大阪の神父、修道士、信者24名が捕らえられ、 途中で2人が列に加わり、長崎に連行された。
最年少はルドビゴ茨木,、御年12歳。
1597年2月5日、十字架にかけられ殉教し、長く辛い沈黙の時代が、始まった。
今から400年前の事だ。彼らの像の下には、マルコ第11章が刻まれている。

「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て
十字架をとりて我に従ふべし」。


26聖人像

26聖人達が祈りを捧げ続ける方向に、大浦天主堂がある・・・

*1999年3月の日記をブログ用にリニューアル。
ニイタカヤマノボレの幻影。
『奇妙な3本の謎の塔』

針尾送信所無線塔

今は廃墟となってる長崎県佐世保にある針尾送信所無線塔
この塔をめぐっていろんな想いが交錯している。この「ながさきのへそ」に載せようと写真を撮った時点では、私にとってのこの塔は時代を語るメッセージシンボルだった。

その3本の細長い塔は、真珠湾攻撃の開始を告げる

ニイタカヤマノボレ1208」

の暗号を送った無線塔だ。
連合艦隊司令長官から全艦隊へと伝えられた世紀の一瞬で、大東亞戦争へ突入する火蓋を切ったと。。

その想いは、いろんな場所で事実として伝えられていたし、いろんなメディアも時代の証言者として登場させた。
戦後は海上保安庁に移管し、海難救助などに使われていたが、1997年に使用を停止し、今は廃墟となっている。
その後時代の証言者として、記念塔として保存のする動きがあるのだけど・・・。

実は、間違った史実だ!という意見が浮上している。うーーむ。
確かに、ネット検索していくと、その暗号が発せられたのは事実だが、初信は千葉県船橋市の「行田無線塔」から発せられたというのだ。
この3本の塔は、その中継として、ハワイ湾攻撃隊に向けてではなく、中国大陸や南太平洋に展開する部隊に伝えらてたのだと。
まぁ、どちらにしても時代の証人として、日本が犯した大きな過ちの渦に巻き込まれたのは事実だ。それを忘れる事無く、ずっと大地に踏ん張っていて欲しいもんだ。

願いを叶えてくれるラッキーポ

イント。


針尾送信所無線塔

この3本の塔が2本に見える場所が、2箇所あるのだとか。
そのポイントでお願い事をすると願いが叶う。そのポイントとは、旧西海橋の真中と、パールラインの長崎よりの出口のところ。 確かに3本が2本に見える^^ さて、何の願いをしようかしらん・・。

*2002.3月の日記を、ブログ用にリニューアルしました。
紫陽花にふる梅雨は、シーボルトの涙。
長崎の港に、出島が浮かんでいた頃のお話。

オタキさんが、シーボルトの日本妻になったのは17歳。
もともとは、良い家柄に生まれたが、親の商売の失敗から家族を助ける為に遊女になった。 その勝気で、義侠的な彼女に一目ぼれしたのがシーボルト。28歳の若き医者だった。
ドイツの医者だが、オランダ人と偽って渡日。その後、日本地図を持ち出そうとして国外追放となるのだけど、その間、出島で開業し、日本の医学界に多大な功績を残している。
オタキシーボルトは、遊女と客としての出会いではなく、患者と医者としての出会いではなかったろうか。日本に来て間もないのにオタキを妾として身請けし、通常一般人は立ち入る事ができない出島への出入りを自由に出来るようにとった策のようだ。2人にとっても国籍を超えた純愛物語だったのだろう。 思いも寄らない国外追放という事がなければ、幸せな日々が続いたはずだ。

国外追放となるまでには、のちに女医の先達となった愛娘、お稲オタキとの3人での出島の暮らし。
たった6年間の非恋物語だったが、シーボルトの胸には深く刻みこまれる。
国に帰ったシーボルトは、愛しいオタキの名を紫陽花に名づけ遠い異国から想いを馳せた。

ハイドランゲア・オタクサと・・。

紫陽花

鬱陶しい梅雨も、雨にうたれた紫陽花を見るたびに、淡く切ないロマンスを思い出す。 ひと雨ごとに、色を変えるのも、なんだか花にシーボルトの心が反映してるようで、しばし、見とれてしまう。

シーボルトは、その後なかなかオタキを忘れられずに、17年後に結婚するのだが、オタキはシーボルトの国外追放2年後に再婚(愛娘お稲がいたので仕方が無いかも)。
それを機に2人の文通も途絶えたのだとか。
そのお稲は、日本人初の女医になって父の面影を追う。

時を越えて30年後に再入国を許されたシーボルトと彼の妻と息子を、オタキとお稲は、誠心誠意もてなしたのだとか。

*1999年3月の日記を、ブログ用にリニューアル。
棄てられた島-人工島「軍艦島」。
ここで生まれ、全国に散らばった人達の思いを抱きながら、

島は復活の時を待っている。

島が廃 墟と化して、いつのまにか35年近くの月日が過ぎようとしている。
島の正式名は「端島」。
長崎半島、野母崎町から北東の沖合約4kmの所にある人工の炭坑島(長崎港から船で1時間程度)で、炭坑の閉山にともない無人の島となった。

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もともとは岩礁だけだったところに、海底炭坑を掘り、居住区をつくりコンクリートでつくられた島は、まるで「軍艦」の風貌。
長さは約480mの日本初の人工島は、時折、立ち寄る渡り鳥の声と、打ち寄せる波の音以外は静寂に包まれている。
かって5000人近くの人が生活していたとは思えない静かさだ。

現在は長崎市の所有で、世界遺産への登録運動が行われている。
2009年には観光客が上陸できるように整備が進んでいるのだが、建物の老朽化が激しく、その工事は難航してるようだ。

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●1999.12 doutoku氏撮影


*1999年3月の日記を、ブログ用にリニューアルしてます。
橋も無いのに思案橋
『男たちの道しるべ』。

ごらんのように、現在は、欄干(実際よりも小さな模型)だけ残っている。
長崎一番の昼の繁華街『浜の町アーケード』を過ぎて、夜のネオンの繁華街『銅座』へと向かう道しるべ。
実は、橋があった頃も、やはり男たちの道しるべだった。

思案橋の欄干

当時の丸山は、江戸の「吉原」に匹敵するほどの日本3大花街の1つで、その遊郭へは、この橋を通らなければならない。
そこで渡ろうか、どうしようか思案する殿方達の姿があったのだろう。

思切り橋の欄干と見返り柳

意を決して橋を渡った殿方達の目の前には花街の入り口の門にかかる『思切橋』があって、なんとも当時の悩める男たちの風情を残す。
写真のように、これまた欄干が残っている。
場所は当時とは少し離れたカステラ屋(福砂屋)さんの前のところにあり、欄干と一緒に映っているのは『見返り柳』。
丸山遊女との別れを惜しむ男たちを眺めていたのだろうか。

『行こか戻ろか思案橋♪』

から『思切って』遊郭遊び。
そして帰りたくなくなった男達を見守る『見返り柳』。
なんとも羨ましい時代だ。
ちなみに、現在の長崎は、国際観光都市として、まるっきり風俗関係の店がないクリーンな街で、その対比が面白い。

実際の思案橋

この写真が、実際にあった『思案橋』の姿。
私事ながら、思案橋にはちょっと感慨深いものがある。
それは、私の母方の祖父が呉服屋を営んでたのだが、その店の看板がチラリと写っている。かろうじて『FUKUSHIMA』とローマ字で確認出来る^^

*1999年3月の日記を、ブログにリニューアルして書き直してます。

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